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作家とは、かっこいい生き物なんだ。

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筒井康隆。今年で80歳を迎える。自ら「作家としての遺言」と銘打った最新著作の刊行記念イベントが、さきごろ講談社で行われた。参加フォームに、筒井康隆への質問状という欄があったので、実名とともに書いておいた。それは、いつか筒井さんに会うことができたら、直接聞こうと思っていたこと。イベントの体裁としてはペンネームでもよかったのだが、ここは実名でないといけない気がした。

イベントは、冒頭に簡単な挨拶があったあと、質問にいくつか答えて、朗読を最後に一編という構成だった。創作の極意と掟は、時代とともに変遷するのか。小説の源流はどこにあるのか。ロゴスは存在するのか。星新一小松左京半村良らのSF作家と同時代を生きて、どんな極意を学んだか。など、いくつかの質問に答えたあと、不意に僕の名前と質問が読み上げられた。

質問:何か小説になりそうな題材をみつけたとして、それが最終的に小説になると確信するのはどんな瞬間ですか?(川田十夢

椅子から飛び上がりそうになった。考えてみれば、こうして客席にいながらにして質問状を読み上げられるのは初めての経験だった。筒井康隆は、こう答えてくれた。

返答:着想が小説になり得るかどうかは、文学的な蓄積によってのみ判断できる。題材が自分にむいているかどうか、その蓄積から判断できる。逆に、これは小説になり得ないのでは?というものを、えいっと書いてしまうこともある。だが、責任は作家が取らなくてはいけない。(筒井康隆

予想していた答えとは、少し違っていた。でも、その真意は受け取ることができた。筒井康隆は、誰も書いたことがないものを書いてきた作家だ。あらゆる作家が手段として選んできた文章読本越しの文体肯定も、いままでしてこなかった。それを最後の長編小説、聖痕を書き上げたあとに、こうして遺言として発表しているのは、つまりそういうことだ。何を書くかではなく、どう書くかが問題なのだ。

筒井康隆は、最後に自らの短編を、自らの声で読み上げた。壊れかた指南に収録されている鬼仏交替。1分ごとに気分が変わってしまう奇病を患った男の話。仏のような表情だったのが一変、鬼の形相に変わる。眼前の人間に罵詈雑言を捲し立てる。その声色の変化を、筒井康隆が自らのタイミングで与える。読み上げる。これが、見事だった。満場の拍手に見送られながら、筒井康隆は会場をあとにした。なんてかっこいい去り際なんだ。作家は、かっこいい生き物だ。生き方ではない、生き物なんだ。町田康の朗読を聞いたときも、同じことを感じた。町田は自分を構成する重要な作家として筒井康隆の名前を挙げ、夜を走るという小説を読み上げた。まるで、自分の作品のように。捲し立てるように。

帰り際に購入したサイン本の帯には、町田康の名前があった。伊坂幸太郎の名前もあった。僕の名前は、まだ無かった。