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ヴィム・ヴェンダースは、パリ、テキサスを、39で撮った。

誰も招かなくなって久しい。荒涼としたリビングで、こないだの会議を振り返っていた。最初に出した僕のアイデアが、みるみる痩せ細ってゆく。前例に汚されてゆく。不毛だ。40前の僕なら、とっくに帰ってそのまま戻らなかっただろう。テレビに流れるのは、パリ、テキサス。陸橋でひとり怒鳴り散らすあの惨めな男のように、孤立するしかなかった。

星にタッチパネル劇場が、今年で2回目を迎えた。話題が先行しているが、大切にしてきたアイデアを信頼できる仲間や兄弟と育てた甲斐があって、僕にしては珍しく運用が成功している。最初に掴んだイメージに強度があったのだと思う。 通信速度と光、時間と距離、仮想と現実が織り成すタイムラグ。閃きを1枚の紙に写した。

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このスケッチが何なのか、当初あまり理解してなかった。通信に必要なタイムラグと、星の光が届くまでの時間に、ポエジーを感じたのかも知れない。だが、きっとそれも後付けに過ぎない。自分の潜在も滞在も越えたところにある、漠としたアイデアを書き残しておいたのが、よかった。

そのあと、タッチパネルのUIを考え、通信の設計を整え、リアリティの根拠を記して、キービジュアルはいちばん最後に作った。星を操る機能は、20を数えた。

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グラフィックデザイナーであれば、最初にビジュアルを作るのかも知れない。プログラマーであれば、シンプルなソースとGitHubの取れ高を計算するかも知れない。僕は開発者だから、時間と空間を耕すことを第一に考える。技術や整頓や賞賛は、それを適える手段に過ぎない。

パリ、テキサスは、嘘みたいな夕暮れ。水色のカーディガンを羽織った女が、鼻歌を歌いながら静かな眠りについた。さて、あの分散した矢印をどうしてゆこうか。まず、居合わせた人間を全信頼してみてはどうか。運命を肯定するのだ。美学の言葉を、工学の力学に翻ればいい。小さい矢印をまとめあげて、大きな矢印に変えてゆく。方針は決まった。来週、もう一度試してみよう。 突然、新しい別のイメージが浮かんだ。与えられた設定を知らぬまま落下してゆく、行間の断崖から大気を感じつつ、重力の方向へ時間が展開してゆく物語。タッチパネル劇場のときのような、まだよくわからない確かな感触。このアイデアは、誰も手が届かない高い場所にしまっておこう。有無を言わさず、形にしておこう。

そろそろ終盤。この映画、何度観たことか。あの残酷で美しいラストが、今回は変わって見えるかも知れない。映画監督、ヴィム・ヴェンダースは、パリ、テキサスを、39で撮った。僕は40になった。

バットでボールをぶっ叩く気持ち良さについて

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Pokemon Goが話題ですね。これをもってVRブーム終了。ARブームに大きくシフトするなんて短絡的な文章が、インターネットで踊っていました。ぜんぜん違う話のようで、やがてつながる話。ザリガニワークス 武笠さん坂本さんとバーグハンバーグバーグ シモダさんを招いてトークイベントをしたときのこと。客席から「おもしろいゲームって、どうやって作ればいいですか?」みたいな質問が出た。武笠さんが間髪入れずにこう答えた。 

「例えば野球って、バットでボールをぶっ叩く気持ち良さがあるからこそ、おもしろいんですよね。この根本的な良さが中心になければ、野球は全くおもしろくならない」 

僕を含む登壇者は内心「(すげー)」ってなったのち、「バスケは手でボールをぶっ叩くのが気持ちいい」だとか「フェンシングは横向きで相手をぶっ刺すのが楽しい」だとか、「◯◯をぶっ△△する」という表面的な響きの気持ち良さに引っ張られたトークに終始してしまったが、この指摘は露骨にクリティカルで、イベントが終わったいまも余韻が残っている。確かに、野球をプレイするのも野球観戦もベースボールカードもエポック社の野球盤もファミスタも全部、バットでボールでぶっ叩く気持ち良さが中心にある。さすがはコレジャナイロボを作った人物の指摘である。 

Pokemon Goの元になったポケットモンスターは、「ボールにモンスターを封じ込める(ゲットする)」気持ち良さが中心にある。この気持ち良さは、かつては昆虫採集という遊びに集約されていた。現代っ子は、虫を触わることができない。モンスターだって、もし目の前に実在してもきっと触れない。触感をスキップしてモンスター同士を戦わせてボールに回収できるからこそ、それをコレクションできるからこそ、図鑑を完成させる目的があるからこそ、図鑑に載っていないモンスターを友達に見せびらかせられるからこそ、スタジアム対戦で注目を集めるからこそ、ポケモンは世界を熱狂させるまでになったのだ。「バットでボールをぶっ叩く気持ち良さ」を発見しない限り、Pokemon GOのようなゲームを作ることはできない。AR技術を使っているからといって、Googleが協力しているからといって、自動的におもしろくなるわけではないのだ。

デバッグのためのソナタ

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2020年からプログラミング教育を全国の小中学校で必修化するという考えを、政府が成長戦略のひとつとして打ち出した。まずはその準備として有識者による会議が重ねられてゆく。プログラミングという新教科を設置するのではなく、どうやって算数や理科に位置付けしてゆくかを議論するらしい。プログラムをプログラムとして教えるよりは、はるかにいい出発点だと感じた。

冒頭にある譜面は、現行学習指導要領に定められている、小学校6年間で子供たちが覚えるべき音楽の記号を網羅したオリジナルの楽譜である。経験をカジュアルにダウンロードできる世界を夢想する僕は、小学校で扱うすべての譜面を最初から簡単に読めるようになればいいと考え、実装に移した。

この譜面はまだ、音楽記号を読む機能を確かめるための素材に過ぎず、音楽的な美しさを網羅していない。会議に参加される有識者のみなさま、算数や理科に限らず、音楽や美術の時間にもプログラミングを導入してはいかがでしょう。そうすれば、アノテーションがないと機能しない人工知能も必然的に拡張され、人間をより深く知るきっかけとなります。デバッグを繰り返すように、ソナタが楽章を重ねるように、工学と美学を同時に学べるようになります。文学も音楽も豊かになります。教育とは未来に希望を託すこと、どうかよろしく。

僕のマイバックページ

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ボブ・ディランが1964年に発表したマイ バック ページという楽曲がある。1995年に真心ブラザーズが『KING OF ROCK』の中でカバーしてたから、日本語訳のほうが耳に残っている。少し気になって、今になって原曲の歌詞を確認してみた。

Crimson flames tied through my ears Rollin' high and mighty traps

歌い出しからイメージと違う。YO-KINGが書いたと思われる和訳は

白か黒しかこの世にはないと思っていたよ 誰よりも早くいい席でいい景色が見たかったんだ

・・・だった。blackとかwhiteとか出てくる箇所から逆に探してみると、2番の歌詞に該当する箇所があった。

Lies that life is black and white Spoke from my skull. I dreamed

直訳すると「人生は黒と白だという嘘を 私の頭蓋骨がしゃべる夢をみた」で、YO-KINGによる歌い出しと比べるとなんだか味気ない。サビを確認すると

Ah , but I was so much older then , I'm younger than that now.

・・・とあり、これは忠実だった。いよいよ止まらなくなって一言一句照合してみたのだが、僕を好きだと言ってくれた女たちも、僕を素晴らしいと言ってくれた男たちも、穴の空いた財布も、厳密には出て来なかった。

これが英語の試験問題だとしたら、教師は間違いなく不正解を与えるしかないだろう。でも、芸術の世界ではこれが大正解。クレジットは作詞作曲ボブ・ディランのまま。あくまでカバーとして発表しているのも潔い。よく見てみると原曲は『My Back Pages』でページが複数に渡っており、カバーは単数形だからボブ・ディランの1ページをあくまで切り取ったという意思があったのかも知れない。まったくの偶然かも知れない。

18歳のときはじめて聞いた真心のマイ バック ページ。こうして何度も振り返れることこそ、ボブ・ディランが歌っていたこと。YO-KINGが歌い継いだこと。大切な僕の1ページ。

新しく花粉症になった君へ

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真夜中に大声で泣き叫ぶ長男を、救急病院へ連れて行ったら花粉症だと診断された。そんな話を友人から聞いた。その子には何度か会ったことがある。頭のいい子だ。これから生じる多くの不具合について、さきに絶望したのだろう。

2016年は例年に比べてスギ花粉の飛散量が多い。友達が「花粉症になったかも知れない」と報告してくるたび、「ようこそ粉まみれの世界へ」と歓迎する。しかし、その多くは「今日って花粉飛んでる?」と聞いてくるビギナーである。当日の花粉量というものは、天気予報に聞くまでもなく自分の皮膚の異常が示してくれる。「これって太りますか?」と、巨漢に聞いてしまうくらいデリカシーの無いことだが、あいつらも悪気があるわけじゃない。そこに言及するつもりはない。

この文章は、新しく花粉症になった冒頭の子のような、さきに絶望したような、君へ向けたものである。 君が予想した通り、これから多くの壁にぶち当たる。学校が始まっても、だいたいスタートダッシュに乗り遅れる。キャラクター、つまり個性という意味で、教室は椅子取りゲームのようなものだ。自分が希望する椅子は、まず残っていない。薬を飲んでも飲まなくても眠くなり、受験で本来の力を出すことができない。浮腫みがち、目が充血しがち、鼻水出がち、モテない。心身ともに倦怠感がつきまとう。そのことを周囲は理解しない。さきに絶望して泣け叫ぶほうが正常だ。非難するつもりはない。ただ、新しく花粉症になった君へ、いくつか伝えておきたいことがある。

通常、人間は文字通り春を迎えて浮き足立った気持ちになる。君はその時期、絶望の淵にいるわけだから、馴染めるはずもない。しかし、そんな季節を何度か繰り返すたび、ある境地に達することになる。春だからといって、誰もが希望を見出している訳ではない。空が晴れているからといって、いい日だとは限らない。むしろ、雨の日にこそ生きた心地のする生命というものが存在する。いとも簡単に悲劇は喜劇であり、喜劇は悲劇になる。そんな文学的ともいえる物差しを、君は若くして手にいれたのだ。ビジネスでこじらせたり暗さを装ったりしてる連中とは、スケールが違うのだ。

世界は条理と不条理と花粉に満ちている。晴れた日への希望を捨てても、雨の日への希望を捨ててはいけない。ようこそ粉まみれの世界へ。君の感覚の解像度は、すでに粒子レベルに達している。

トルナトーレが、中年期のトトと同じ年齢になっていた。みんな元気だった。

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ニュー・シネマ・パラダイスにまつわるドキュメンタリー番組が、NHK BSプレミアムで不意に放送されていた。劇中で映画監督となって故郷に帰ってくるトトと、同い年になったジュゼッペ・トルナトーレ監督が、ロケ地であり生まれ故郷であるシチリアを案内しながら、映画誕生の秘密を明かす内容だった。

この映画といえば、ラストシーンを思い出す人が多いだろう。敢えてここでは明かさないでおくが、それは見事なエンディングだった。映画そのものへの深い愛がないと、描けない。映画そのものが持ち得た、唯一の物語。この映画が最初に上映されたのは、1988年。僕は、12才だった。映画館に入れなかった観客たちが暴動を起こしかかっていたのを、映写機の反射板を傾けることで隣のアパートの壁に映画を投影するシーンが印象的だった。早過ぎたプロジェクションマッピングとも言えなくもないが、現代風の言い換えがことごとく安っぽくってしまうほど、素晴らしいシーンの連続だった。フィルム時代だからこそ、効力のあった映画の魔法というものが、確かにある。

番組は、少年時代のトルナトーレが、カメラを持ち歩いていたことを紹介した。止まった世界のなかで、複雑な世界を垣間みる視点が、そこには既に備わっていた。加えて、映画鑑賞会などの一緒に企画するなど、思春期をともに過ごした同級生がこんなことを答えていた。

同級生:「トルナトーレは、映画のあらすじを語るのが上手だった。実際に見てみると全然おもしろくなかった」

監督は、物語の根幹を為すエピソードについても紹介していた。協会で定期的に催される教区映画館では、神父が映画を選ぶことになっている。だから、キスシーンが出るたびに、当時の神父は検閲の鐘を鳴らす。技師はその都度、フィルムに紙を挟む。以降、そのシーンは全てカットとなる。このくだりは、本当にあった話らしい。ただ、カットされたシーンは、少年が缶にしまったきり、どこかへ勝手に持ち出してしまったのだと言う。消えてしまったキスシーン。これにまつわる妄想が、やがてニュー・シネマ・パラダイスを象ってゆくことになる。

主役のトト少年は、シチリアで生まれ育った少年をキャスティングすると、最初から決めていたらしい。番組の最後で、映画に出たことが、今後の人生にどう影響したのか。トト少年時代役の俳優(サルヴァトーレ・カシオ)に、監督が聞いていた。

トルナトーレ:「気をつけなければならない。映画の世界は素晴らしいが、冷酷でもある。映画で成功した子役は、いつか大人になってしまう。苦しい思いをすることもある」
カシオ:「人見知りだったこともあり、俳優を続ける選択はしなかった。でも、ニュー・シネマ・パラダイスは、僕の人生の大切な一部」
トルナトーレ:「それを聞いて、安心しました」

いい映画を撮ることに加えて、それが役者の人生にどう影響したのかを心配している辺り、実にトルナトーレらしいと思った。カシオは現在、シチリアでレストラン兼宿泊施設を経営している。俳優業からは離れてしまったが、あの映画のような人生については、ちゃんと書き残しておきたいのだという。

トトのモデルとなった映写技師も、インタビューに答えていた。映画を観たときに自分自身のことが全て描かれていると感じたと、涙ながらに話していた。物語を描くとは、つまりそういうことなのだろう。

トルナトーレ:「映画で描いたものは全て、現実に存在した」「想像力なんて、ひとつも使わなかった。映画館のなかには、必ずといっていいほど、登場人物と会話する人がいる」「ニュー・シネマ・パラダイスで私が描きたかったのは、かつて映画が娯楽の中心にあったという時代があったということ。映画の中で素晴らしい人生に出会えることを知ってほしかった」「映画は決して死なない。映画は愛のように、永遠なのです」

「撮るな、撮れ!」という呪いのような名前を与えられながら、映画監督という天職を真っ当するトルナトーレ。その言葉は、どんな台詞よりも美しい。新作はラブストーリーらしい。超ひさびさにブログ書いたのに、こんな終わり方でごめん。みんな元気。

大きくて個人的な、割れんばかりの拍手だった。

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昨晩、世田谷文学館で、筒井康隆の朗読会が行われた。御年80才。現在展示中の『日本SF展』の監修も務めている氏のことである。何かしら、SF総決算的な作品が選ばれると予想していた。 予想は見事に裏切られた。新潮2014年1月号に掲載の新作『ペニスに命中』を選んだのである。「SF展だというのに、SFは選ばなかった」「読むとちょうど1時間くらいだから」と、根拠について明かした。果たしてそれだけだろうか。朗読に耳を傾けながら、考えていた。

ペニスに命中は、高度な思考を持ったまま老齢を迎えた男の話だ。食卓の上の置き時計が珈琲カップを壊してくれと話しかけてきたり、二百万円と拳銃を持ち逃げしたり、2ページ後の未来を予言したり、死後硬直のまま歩いてくる婆さんと衝突したり、笠智衆の声色を使ったりするお話。主人公と同じく銀齢を迎えた作家、最先端の筒井の感覚を文体化したものだった。 感覚に嘘をつかず、立場に溺れず、現在形で一番おもしろいと思う新作をSF展の会場で朗読する。なんてかっこいいんだ。

朗読が終わると、観客から惜しみない拍手が送られた。それは、本を閉じる度に読者がそれぞれ感じてきた「あー、おもしろかった」を一堂に会したかのような、大きくて個人的な、割れんばかりの拍手だった。